考える練習

舞台やイベントの感想など

意外と解釈の幅ないよね、という話

先日の無料配信で悲伝見た方で、「光忠を折るとかしたほうが悲劇性が高くてよかったように思うけど、2.5だから難しかったんだろうな」と仰ってる方がいて、私は確かにな~と思いつつも、「光忠自身が三日月さんは僕を殺すつもりはなかった、って言っちゃってるから、折るとしたら筋自体が変わっちゃうし……」と思ったんですが、そこではた、と。


その説明があることでかえって話がややこしくなってるのでは??


三日月に刺されたことに対する光忠のセリフが顕著ですが、「三日月はひどいことしてるようだけど、思うところあっての所業で、ほんとうはいいやつ*1なんだよ」というのを悲伝は手を変え品を変え何度も何度も伝えてきます。

何度もそのメッセージを伝えることによって、「三日月はひどいことしてるようだけど、思うところあっての所業で、ほんとうはいいやつなんだよ」という解釈が「正解」になってしまってるんですよね。描写からどう見えようが、上記の解釈が「正解」であるとさんざん悲伝が示している以上、例えば「三日月はクソ野郎だ」という解釈は「間違い」になってしまう。

「ほんとうはいいやつ」解釈をすんなり感じられるもしくは信じられる人はいいんですが、そう感じられない人はどう思うかというと、描写で伝えずに説明で解釈をゴリ押ししてくるという印象になるんですよね。


逆に「ほんとうはいいやつ」という説明がいっさいなかったらどうなるか。

「三日月はクソ野郎である」という解釈も間違いではなくなるんですよ。注意してほしいのは、これが唯一の正解になるわけではありません。

「三日月はほんとうはいいやつなんだ」という解釈も「三日月はクソ野郎である」という解釈もどちらも正解になるということ。


ここまで考えてきて気づいたんですが、悲伝ってぱっと見はいろいろな解釈ができそうに見えて、実は多種多様な解釈が許される作品ではないんですよね。がつがつ説明を入れたことで、ほぼ正解の解釈が定まった作品になってしまっている。

それこそ光忠を折ってしまって光忠の説明セリフをなくし、「思い出そう、三日月のこれまでを」みたいなシーンも削り…、ってやっていけば、悲伝の三日月に対しての解釈はいろいろな解釈ができるものになったと思います。

その場合も私の「三日月まじでクソ野郎だな」という印象は変わらないと思うんですが、
たぶん悲伝自体に対しては気持ち悪いという感想にならなかったと思うんですよね。「これはそういう話なんだな」ですんでしまうから。


というのもですね、先日とある作品で、まぁ~えげつないことを最終的にやってしまう人物が出てきたんですが、作品自体に対してはむかつかなかったんですよ。考えてみればそりゃそうなんですが、別にむかつく人物が出るイコールその作品を嫌いになるとは限らないんですよね。「作品自体はめちゃめちゃよかったな…ダメージがすごかったけど…。あれ、なんかこの感じ、悲伝と似てるな」と不意に気づいて、じゃあ悲伝が気持ち悪かったのはなんでなんだろう?と。


「なんか納得いかないけど、たぶんいい話なんだよね…?」ってなってた人たちは、上記の「ほんとはいいやつなんだ」説明がなかったら、素直に受け取れて印象違ったんじゃないかなぁ。そう考えると悲伝でやたら説明入れちゃったのすごく惜しいですね。まぁ、光忠のセリフとかが後付けっぽいの考えると、公式サイドに注文つけられて変わった部分だったりするのかな。そのあたりを削ってたら、それこそ2.5の枠を越えた、演劇らしい作品になってただろうなぁと思います。


おまけ:「三日月はクソ野郎」解釈だと後々整合性取れないんじゃないかって思う人もいるかもしれないんですが、たぶん最後の最後には種明かしくると思うので、その時に「あっ、やっぱり思うところあっての行動だったのか!」ってなればすべて覆って整合性が取れます。

*1:「いいやつ」という表現はいささか雑ではあるんですが、いい代替表現が思い浮かばなかった