考える練習

舞台やイベントの感想など

一色エドと廣野エド

一色エド

もともと一回は見ようと思っていて、東京公演の中盤で見たんですけど、一色エドは廣野エドとは違う良さがあり、こっちはこっちですごくよかったので、もうちょっと早めに見てればもう1回ぐらい増やせたのに…!ってなりました。

身体能力がばちばちに高く、ちょっと大人なエド。「戦闘能力は序盤からカンストしてる主人公」としてはもうぴったり。パンチもキックもキレが段違い。廣野エドとアクションの流れは同じだと思うんですが、もはや違うことやってるように見える。

見かけた感想で「自分が10代の頃に読んだ時のエドの印象」って書いてる方がいて、それ!!ってなったんですが、廣野エドに比べるとちょっと大人な印象なんですよね。17,8歳ぐらいの年齢に見える。

廣野エドが常にちょこまかしてる感じなのに比べると落ち着いてる印象なんですが、個人的には修羅場くぐってる人としてはそっちの方が正解じゃない?という気がしてます。ってかたぶん一色エドに感じる、強そう感、たぶん単に動きのキレだけじゃなくて、戦闘慣れしてる感じもあるんだろうな…。*1

廣野エド

かわいい。とにかくかわいい。
いや、そうじゃないですね。けど、まじでかわいいんですよ。

年齢の印象はシーンによっても変わるんですけど、12~15歳くらいかなぁという印象。廣野エドを見ていると「エドもまだ15歳の少年」というのを強く感じる。

周囲で起こる出来事すべてに細かく反応していく感じがちょっと小動物っぽい。全体に落ち着きのない子供。

廣野くんの柔らかい心で受け取っていくような芝居が好きなので、余計にそう取ってるところはあると思うんですが、悲しい出来事ややるせない出来事をそのまんま心で受け止めて、まっすぐに傷ついて、葛藤して、そこからまた立ち上がっていく、そんな印象があります。

演出家さんに「邪気をなくせ」と言われたのをツイートしてて、邪気てwwwってウケたんですが、舞台上の廣野くんを見たら、確かにこれまでと違ってて。舞台上にいるのは間違いなく廣野くんなんだけど、廣野くんじゃない人がいるみたいに思えて不思議な感覚でした。

廣野くんの演技プランともあいまって、本当に15歳の少年に見えて、時々本気で中の人の年齢がわからなくなる感じがあって、すごく不思議な感覚でした。

演技の相違

セリフの流れがおかしいのを自分でカバー

列車をジャックした集団のリーダーとのバトルで、エドオートメイルでつくった刃がぐさっと相手の銃に刺さって「なんだ、安物使ってんなぁ」と言う箇所が、舞台では「チビがうんぬん」というセリフへの煽り返しで「なんだ、安物使ってんなぁ」と返す、という不思議なやりとりになっている箇所があります。

廣野くんはそのまま原作通りのニュアンスで言ってるんですが、一色さんは「なんだぁ!?安物使ってんなぁ!」という言い方になっていて、流れがおかしくならないように「なんだ」の意味を読み替えてたんですよね。
ここ、私的にはひっかかりポイントの一つだったので、「え!?すご!」ってなりました。脚本を変えずに意味を読み替えることで流れの不自然さを解消する…。匠の技を見たような気持ちになりました。(記憶違いでなければ、楽日は廣野くんもちょっと言い方変えてて、廣野版と一色版の中間みたいな感じになっていた)

ただ、後から思ったのが、ここで読み替えるということは流れがおかしいことに少なくとも一色さんは気づいてたわけですが、でもそこで「流れおかしいからセリフ修正した方がいいのでは」とはならないんだなと。脚本のおかしいポイントについて、「これ役者も含めて誰も気づかなかったのか…」とちょっと落胆してた部分もあったんですが、そもそも言える雰囲気ではないのかな~と思ったりしました。

原作と流れが変わった箇所での対処part2

ニーナとアレキサンダーの件の後、いったんはけてからまた雨の中、悄然と歩いてきたエドが「俺たちは人間だ!たった一人の女の子さえ救えない、ちっぽけな人間だ!」と言うシーンがあります。

ここ、ひっかかるまではいかないものの、なんか唐突だなと思ってたんですが、原作を読み返すと、マスタング大佐とのやりとりで、「狗だ悪魔だと ののしられても アルと二人 元の身体に 戻ってやるさ。だけどな オレたちは 悪魔でも ましてや 神でもない」の後に「人間なんだよ!たった一人の女の子さえ助けてやれない!」と続くんですよね。

廣野エドは原作の言い方そのまま、ビックリマーク付きな感じの言い方。それに対して、一色エドは悄然とした感じで、「俺たちは人間だ。たった一人の女の子さえ救えない、ちっぽけな人間だ」という感じ。

芝居としては一色さんの方が自然なんですよ。モノローグも特になく、いきなり「俺たちは人間だ!」から入ったら、「え、急にどうした?」となってしまう。ただ、原作をよく知悉している人が見たら、原作と言い方が違うことに違和感を覚えてしまうかもしれない。廣野くんは原作を知っている人が多いことを前提にした組み立てで、一色さんは舞台のみ見ても成立するようにというところに主眼がある気がします。メインフィールドが2.5か、not2.5かの違いが出ているように思えて、興味深かったです。

リアルとリアリティ

トリシャに錬金術で作ったものを見せる、というシーンが数ターン続いた後、倒れてしまったトリシャを兄弟が見つけるシーン。

廣野エドでは、倒れたトリシャにいつものように作ったものを差し出し、ん、ん、という感じで数回差し出していて、初回、異変に気づいていない感じに思わずぞっとしてしまった箇所。その後様子がおかしいことには気づくんですが、いくら幼いとはいえ、いつもと違うのはわかるのでは??と腑に落ちなさを抱えていました。そこが一色エドでは倒れてるのに気づいたところで、異変に気づき、作ったものをテーブルに置くという感じになっていて、こっちの方が違和感ないな、と思っていました。

5歳とはいえ、床に倒れてたら、なんか普段とは違うのには気づくはずだし、「お腹いたいのかな?眠いのかな?」ぐらいは考えられるはずだが??と思ってたんですが、それがわかるとはいえ、他人の状態<自分の欲求なんではないか?とも後から思いまして。5歳の男の子として考えたら案外これリアルなのかもしれないな?と。ただ、身近に子供がいたら、そっちの方がリアルかも、とかに気づくのかもなぁと思うんですが、身近に子供がいない状態だと、つい大人の感覚で見ちゃうんですよね。倒れてる人に「これ見てよ!」と成果物を見せに行くのはだいぶサイコパス感がある。

そう考えた時に廣野エドは「リアル」で一色エドは「リアリティ」なのかな~と。5歳男児の生態としてはそっちの方がリアルでも、見た時に見やすいのはこっちだろう、という判断なのかなと思いました。ただ、ここに関しては原作でも倒れてるのを見た瞬間に異変に気づく描写になっているので、単純に原作どおりな可能性もあります(笑)。(そしてそう考えた場合、このシーンに関しては廣野くんはnot原作沿いということになる)

*1:めちゃめちゃ余談なんですけど、そう考えると廣野くん、煽ったりとかは得意だけど戦闘慣れはしていないのか…(何の話)