考える練習

舞台やイベントの感想など

心配への距離の取り方

お題箱にいただいたメッセージで「こんな記事を書くなんて、本当に荒牧さんのことが好きなんですか?」といった内容があり、これはちょっと補足した方がいいかもしれないなと思ったので、前回記事について補足記事を書いてみます。

長くなったので先に結論を書いておくと、「信頼しているのであまり心配はしていない」という話です。


前回記事、冒頭だけ読むとめちゃくちゃ軽く見える可能性があるなーという点で、グループにあげたことはちょっと反省しました。こういう風に思ったおたくもいるよ、という案の一つとして、「舞台俳優のオタク」グループの方にもあげてみたのですが、過去記事という文脈が一切ないところでどう受け取られるかについて、想像力が不足していました。


一番投稿者さんの気に障ったのは「オタク的には大したことない」というあたりかなと思うのですが、正直、イベントでの匂わせからいろいろ考えて、周囲の動揺を見聞きしてるうちに疲れてしまった部分があって、思ってたより軽かったなって意味で、大したことない、という部分も大きいです。あと実際オタクとしてやることは変わらないし。

推しといっても他人だと私は思っているので、その状況にどっぷり入れ込んで心配する、というのがあまりないんですよね。

……と思ったけど、刀ステ義伝の時とKステの時は心配してたわ…そういえば…。


その時と今回の違いを考えてみると、今回は突発的なものではなく、事前に計画されたことである、というのがまず大きいです。

今回のことを決めるにあたって、お医者さんだったり療法士さんだったりと綿密に相談したと思うんですよね。現在の身体の状態と復帰後に必要とされる運動量から勘案して、最低どの程度リハビリのために取らないといけないか。それで、刀ステの稽古が5月から始まるとして、それまでに2ヶ月、それだけあれば復帰できるはずだ、と。プロの人達が話しあって決めたはずなんですよ。そしたら、手術もひとまず成功した訳だし、後は決められた手順にそってリハビリを粛々とこなしていくだけで、そして、荒牧さんはやると決めたらやる人だし、必要なことをうっかりやりそびれたり、手抜きしたりなんてこともないでしょう。……って考えると、素人が心配するのってかえって失礼なんじゃないのかな、という思いもあります。


それから、他人への心配との距離の取り方については、私の中で印象的なできごとがありまして。詳細はぼかしますが、家族や友人がニートやフリーター状態で、そのことをわりと入れ込んで心配してた時期があったんですよ。(ちなみに家族と友人の話の時期はズレてます。)

特に家族にたいしては、これしてみたらとかあれやってみたらとかおせっかいもして、やきもきしたけど、結局事態は変わらなくて、その後、私が自分自身のことでいっぱいいっぱいでそれどころではなかった時期に、その私がやってた活動におそらく感化されて、自ら足を踏み出した、っていうことがあって。(ちゃんと確認した訳ではないんですけど、いろいろ総合的に考えてたぶんそう)。

友人に関しては、家族の件もあったし、こちらが口出しするのもなと思って、たまにこういうのはどう?って提示してみるぐらいで基本的にただやきもきしてただけですが、彼女自身でちゃんと考えて、自分の道を歩み始めたのを見ていて、私は彼女のことを信頼してなかったなって、反省しました。心配って要は相手がその試練を乗り越えられないかもしれない、と思うからするんですよね。大丈夫だと思ってたら、基本的にはしないもの。

このあたりの経験から、他人に対してこちらができることは見守ること、きっかけを与えることだけで、入れ込んで心配することはあまり意味がない、場合によっては失礼だ、という意識があります。


あまり心配していない理由としてもう一つ、ニコ生で明るく話してくれたから、というのもあります。このあたりは荒牧さんの気遣いですね。生活面やリハビリの話をしている時に、ときおり表情曇ってましたけど、いろいろ大変なこと、つらいことはあると思います。でもあれだけ明るく喋れるってことは、ひとまずは大丈夫なんだろうなって。

あと、あれだけ明るく「大丈夫だよ!」って言ってるのに心配されても悲しくないですか? 「あれ、俺、信頼されてないのかな?」ってならない? 「大変だと思いますけど、待ってますね!」って明るく言われた方が私は嬉しい。まぁでもこのあたりは人それぞれか。

入れ込んで心配することはあまり意味がない、と上で書きましたが、気にかけること、待ってる人がいるよと伝えることはとても意義があると思うので、とりあえず手紙は出すつもりです。