考える練習

舞台やイベントの感想など

悲伝を好きになれない理由 (vol2) (たぶん)

またひとつ発見があったのでメモです。
なんだかんだでこうして遊べることを考えたら悲伝優秀な気がしてきた。

悲伝が駄目な理由、すっごいシンプルかもしれないと気づきました。「エゴの愛をアガペーの愛として扱われてるのが気持ち悪い」の派生みたいなものではあるんですが。

先日、下記の漫画を読んでいて、とあるシーンのセリフがすごくささりました。
お母さん二人いてもいいかな!?
(ちなみに今 kindle 版が100円で買えます!)

子供への深い愛情が伺えるセリフだったんですが、その時に、私はこの逆のパターンは本当に駄目なんだよなって、ふと舞台「K - Lost Small World -」(以下、ロスモワ) の伏見仁希のことを思い出して。伏見仁希は息子の大事なものを壊して憎まれることに楽しみを見出すというなかなかのキャラで、推しが演じているにも関わらず、私は仁希が無理すぎたので円盤を買っていません。無理すぎて書いた記事はこちら
hirokuhukaku.hatenablog.com
読み返したらこないだ悲伝に関して書いたことと同じようなこと書いててちょっとおもしろくなってしまった(笑)


その時に、あぁそうか、ステ三日月も一緒だよなぁと。

仁希が駄目な理由は、もともとクズキャラが苦手であることと、親(もしくはそれに類する立場の人)が子供を傷つける状況が地雷だから、なんですが、親が子を傷つける状況って悲伝の三日月も一緒だよなぁ…と。

実際には親ではないですが、親のような立場として山姥切に対して振る舞っているし、山姥切も親に対するように慕っている節があるのと、ループしまくっていることを考えると生きている年数としては年長者の立場にあることから、類する立場とは言えるかなと。

三日月が山姥切を傷つけていることに関しては、悲伝称賛派も同意だと思うのですが(違ったらどうしよう)、そもそもそれが地雷だから駄目なんじゃね??という。

ロスモワでは仁希は重要キャラではあってもメインではないので、こいつまじむかつく、でも話はいい、という切り分けが可能なんですが(実際ロスモワは話自体は好き)、悲伝においてはその地雷行動を取るキャラがメインなんですよね。そうなると話だけ切り分けて評価することができなくなってしまう。


ちなみに、どのくらいの時期から考え始めたかは忘れましたが、個人的には、三日月と山姥切の関係性、毒親とその子供みたいな関係性だな~と思って見てました。たぶん山姥切は早く関係を切った方が幸せになれるやつ… 今は親鳥についてく雛状態だから無理だと思うけど…。あとついてくことを選ぶにしても(今は別々の状態なので精神面での比喩的な話になりますが)、選択するという視点がない状態での否応無しの選択じゃなくて、ちゃんと関係性を理解した上で本人の選択ができる状態になるといいなぁと思います。今だと選んではいないので。

余談。悲伝好きな人に話聞いてた時に、山姥切が三日月三日月言ってるからそこに嫉妬しているんだと理解されてたことがあって、そういう視点があるんだな~と興味深かったんですが、私は役と本人をそもそも分けて考えてるのと、三日月と山姥切の関係性を上記のように捉えてるのもあって、山姥切に関しては、つらい状況に巻き込まれてしまった友人を見守るような気持ちで見てます。


自分で不思議だったのが、話がどうか、という観点で、もうこれは価値観の問題だから仕方ない、諦めよう、と思ってた時は「悲伝がいい話だと思える人羨ましいな」と思ってたんですが、「『仁希かっこいい』って言ってた人たちと同じようなものか」って考えると、なら別にいいやという気持ちになってきました。なんでなのかは不明。何が違うんだろうな。


そういえば、食い違いでもう一つ、悲伝を「丁寧」と評してる人が時々いて、「どこが…??」と思ってたんですが、これのせいかなとおもったことが。

たぶん、悲伝がいいと思える人にとっては、三日月の行動が愛ゆえの行動であることは自明なんですよね。だから、そこをあらためて愛ゆえですよって言われると説明過剰だな~ってなるし、丁寧だな~ってなる。

しかし、三日月の行動が愛ゆえのものとは見えない身にしたら、(私の場合はエゴ由来は別物という認識なのでそう見えない) 全然そう見えないのに「愛ゆえとして受け取ってね」とだけ言われる状態になるので、(具体的なセリフがある訳ではなくて、演出などからメッセージとして伝わってくる)、「???」だし、「この作品、描写が下手だな…」となる。

たぶん他の行動も食い違いが発生する部分に関してはそうなんだろうな…。

そういえば、悲伝、純粋にアガペーの愛の物語として捉えようと思えば出来るようにしていることによって、「なんやねんこの話」となるリスクを少しでも避けようとしてるのかもな~と思ったりしました。飲み込みづらい人はアガペーの愛の話として解釈すればいいよ、という。実際そこまで意図してたかはもちろん不明なんですけども。

池袋ウエストゲートパーク SONG&DANCE 1/4ソワレ 感想

下書きに放り込んだままになっているのに気づいたので、今更にあげてみます。
今年の1月ではなく、昨年1月上旬に観劇した感想です(笑)

↓↓↓

ざっくりでいいから早くあげてみよう企画第2弾。タイトルに日付入れると今日の感想ですって感じになって書きやすい気がする。

感想ブログ読んで「やっぱり気になる!」と思ってチケット取ってたんですが、とても…よかった…。

劇場は東京芸術劇場シアターウエスト。
通常は奥側にのみ舞台、だと思うんですが、ど真ん中にどんっと舞台があって、奥側は舞台と同じ高さのところにひな壇が作られて座席が置かれてました。なので奥側最前列は舞台と地続き。手前側の最前列もそうだったのかな?
K列だから双眼鏡いるなーと思って持っていったんですが、通常の形式の場合の前方列がつぶされてるために実際は7列目だったので、なくても普通に表情見えました。双眼鏡を使えばどこでも前方席派ですが、使わないほうがやっぱり舞台そのものに集中できていいですね。

なんだろうなー。めちゃくちゃ良くて、こんなに上質なエンターテイメントが7,500円(一般席)で楽しめるとか実質タダでは?って感じでした。

とあるギャング集団が仕切っていた池袋に新たなリーダーが現れて別の集団ができ、対立構造に陥ってしまい、悲劇が起こる…という話なんですが、流れの表現が絶妙で…。歌もダンスもレベル高いし、とにかく楽しかった。


以下、箇条書きまじえつつ。

  • 開演数分前からダンスバトルがあり、高まるストリート感。
    • ダンサーさんたちと俳優陣とのガチンコのダンスバトル(観客の拍手の大きさでどっちが勝ったか決める)
  • 染谷俊之さん演じるキングの存在感がすごかった。
    • 声の威圧感がすごい。単なる低めの声じゃないんだよね。めちゃくちゃかっこよかった…。小説読んでた時のイメージではガタイがいい人の印象だったから、「染谷さんがキング??」って思ってたんだけど、あ、この人は「キング」だって思った。納得せざるを得ない。
  • 対立相手のトップもよい
    • 染谷さんとは逆に、高めで飄々とした声なんだけど、地に足ついてない不思議な浮遊感が別種の底知れなさを感じさせて、ふらっと来てトップを取ってしまうことに関して、この方もすごい納得感があった。


池袋ウエストゲートパークはだいぶ前に小説で読んだきり、おぼろなイメージがあるきりなんですが、たぶんこれけっこういじってる、よね? こんな悲壮な感じの話だった覚えがない(笑)。

池袋のギャング集団がお互いに緊張状態高まったあげくつぶしあいになってしまい、それを止められなかった主人公が無力さを嘆く、という話なんですが、こんなに救いのない話だったっけ…? なんだかんだで止めてそうな気がするんですが、違ったかな。しかも最後、衝突を止められてないっぽい上に、その暴走の結果、どうなったかが示されないという…。主人公が生きてるとこ見ると、そこまで悲惨な事態にはならなかったんだろうか。

最後まで中立な立場を貫くマコト(大野拓朗さん)がいかにもまっとうに育ってそうな感じで、どっちかに肩入れするでもなく、中立な立場を貫く点に説得力があってよかった。

実は裏でヤクザが手を引いてて、いいように利用されてただけだ、という真実が明らかになるあたりで、「あ~池袋ウエストゲートパークってこういう話運びする物語だったよね!」って懐かしさを感じた。話がギャング同士の話で終わらないあたり、大人のずる賢さに負けるな、というメッセージも感じるし、世界は広いんだぞ、というのも感じる。石田衣良さんの小説はこういうところが好きだったなぁ…と思い出しました。
あとクラシックが要所要所で出てくるのもIWGP味を感じた。小説だと自分で探してこないと聞けませんが、舞台だとその曲がながれてくるのいいですね。

モブの人たちが赤と青、両陣営どっちも担当してるの、人はどちらにもなりうる、とかどちらでも変わりない、とか、なんかいろいろ読み取って遊べますね。舞台から退出して即逆陣営のブルゾンを羽織って出て来ることもあって、アンサンブルさん大変だ…とも思ったけど。

あれだけキングの言うことなら聞いていたのに、最後の最後、「武器を置け」って言われてもそこだけは従えないのも真実味があってよかったな…。凄むキングの表情もよかった。染谷さんはわりと飄々としたキャラばかり見てたから、あんな表情は初めてみた。

悲伝のエゴとアガペーの話

悲伝がどんな作品であるかという評価にかかわらず、結局悲伝をいい作品だと思えない限りはしんどいんじゃないかと思って試行錯誤していて、発見があったのでメモ。

エゴの愛として認識してる感想ブログをたまたま見かけて、「同志がいた…!」ってなってテンションあがり、あらためてアガペーとして認識してるかエゴとして認識してるかという観点でいくつか検索でひっかかった感想記事を読んでたんだけど、「アガペーとして捉えてるのかエゴとして捉えてるのか判然としない」感想か「これたぶんアガペーとして捉えてるな…」という感想しかないなぁと。明確にエゴの愛として峻別した上で、悲伝いい!という感想を本当に見かけない(いや、嘘。1件だけ見つけた)

よくわかんね~ってなっていろいろ感想読んでた時も、そうだったから混乱したんだったよな…ってあらためて思い出した。

これたぶん悲伝をいい作品だと思うためには、「三日月の行動をアガペーの愛として捉える」か「エゴの愛をアガペーの愛と同列のものとして捉える」のどちらかができないとだめなんじゃないかなぁという気がする。

TRUMPシリーズでもエゴの愛は描かれてて、LILIUMが個人的に一番わかりやすいなと思うんだけど、これが平気なのは、エゴの愛に対しての作品の評価がおぞましいものという評価だから。(作中での評価ではなく、作品としてのその行動への評価) それに対して悲伝ではそうなっていない。だから私の解釈とあわなくて気持ち悪かった。

で、そうなると私が悲伝をいい作品だと思うためには、「1. 三日月の行動をアガペーの愛として捉えられるようにする」か、「2. エゴの愛をアガペーの愛と同列のものとして捉えられるようになる」のどちらかが必要なんだなーというところでほぼ振出しに戻ったなという。

2. はわりと根っこの部分の感性の変更になってしまうから、1. の方が簡単な気がするんだけど、作品理解として正しいのはたぶん 2. の方。そうなると自分を騙す必要があるので、ほぼ2.の難しさと変わらなくなってきてしまう。

この私の感じている気持ち悪さを例えるなら、「快楽のために人を殺すことを肯定する作品」を読んだような感じ(舞台作品だと想像しづらいので小説想定)。なんだけど、そう考えると倫理観が関わる価値観の話になってくるので、そこを変えるのって、誰かに洗脳してもらわないと無理では?という(笑)。

結局無理じゃん、というところに戻ってきたんだけど、最初は土の表面なでて「無理かも…?」ってなってたのが、岩盤にかつんってぶち当たって「これは無理だわ」ってなった感じ。さすがに諦めがつく。快楽殺人を肯定するのはさすがに無理っす。あとわりと初期から感じてた気持ち悪さの理由がようやく見つかってすっきりしました。もー本当に気持ち悪くて、これ他の人は気持ち悪くないの!?まじで??ってなってたんですよね。*1

いまいち飲み込めない、なんかよくわからないってなってる人の中にも、実はこのあたりでひっかかってる人いそうだなと思う。「悲伝いい!」ってなった人たちは逆にこのあたりがあうんでしょうね。

*1:余談だけど、なんとなく検索してたら刀ステは気持ち悪いよって感想見かけて別にドンピシャで私と同じ気持ち悪さを感じてる訳じゃないと思うけど、「ここに言葉がわかる人がいた…!」みたいな気持ちになった。

カクシンハン・スタジオ 第1期 修了公演「ロミオとジュリエット」

何気なくTLを眺めていたら、カクシンハンでロミオとジュリエット、当日券販売予定ということだったのでふらっと行ってきました。

柱の後ろになるんですが…と言われ、どんな感じなのかなと思っていたら本当に柱の後ろだった(笑) 席ついた瞬間、思わず「な、なるほどw」って言ってしまった(笑)
真ん中のステージは全部見えたけど、上手側のステージ脇の一段降りたところはまったく見えず。さすがに誰がしゃべってるかわからないのはきつかったので、時々のぞいて確認してました。横の人と後ろの人ごめんなさい。段差ある会場だからそこまで邪魔にはなってなかった…と思いたい。


ロミジュリ自体をちゃんと見たのがたぶん初めてなので、他のプロダクションと比べてどうこう、というのはまったくわからないんですけど、役者さんたちはとても初々しい感じながらも、カクシンハン節ががっつり効いてて面白かった。ロックっぽい感じの音楽に乗せてセリフが始まると「カクシンハンだ~~!」と思ってすごいテンションあがってしまう。

2.5次元舞台でも明らかに経験浅い人がいることはままありますが、そういう人たちの感じともまた違ってて、週3で10ヶ月稽古してきた成果なのかな? 技術的には拙いながらもテキストの理解がちゃんとしてる感じがあって(完全に印象ですが)、興味深かった。

ただ、初日なのにすでに声が枯れてる人がいたのがちょっとつらかった…。喉しんどいだろうなと思って気になってしまう。

神父がジュリエットに薬を飲んだらどうなるか説明するシーン、途中からコロスも一緒に言うのと、ジュリエットがどうなるかをセリフにあわせて示しながらやる演出が好き。コロスが好きっていうのもあるんですけど、ああすることでおどろおどろしさが増す感じが楽しいなと思った。

それとエピローグの演出がめちゃくちゃかわいくてほっこりしました。他の方の感想読んでると普通はないっぽいので、セリフ自体が付け足されたものなのかな? シェイクスピアっぽくない感じのセリフに聞こえたのがちょっと気になりましたが、あのシーンがあることですごく救いを感じるな~と思う。


余談:
未経験がほとんどの人たちで作り上げるという点で、A3!*1のMANKAIカンパニーを思い出したり、テニミュ*2を思い出したりしてました。
MANKAIカンパニーの春組なんかはガチで初心者ばっかりで、数ヶ月の稽古で公演打ったことになってるけど、あれはやっぱりファンタジーなんだなぁ…と感じたり、そう考えるとテニミュって俳優育成の場としてすごいんだな…と明後日の方向に感心したりしてました。以前に同じキャラを演じたキャストの様子を参考にできる、キャラっぽく振る舞うことでセリフ回しの拙さや演技力の不足を補えるからなどの理由もあるとは思いますが。


アフタートーク

23日夜公演は演出の木村龍之介さんとシェイクスピア研究家の北村紗衣さんによるアフタートークがありました。

北村紗衣さんが仰ってたところによると、神父や乳母など年齢が上の方の役の人たちのセリフがわりとカットされてるそうです。そのためにだいぶ若々しい感じになってますよね、からの「このヴェローナに叡智はない」っていうのに笑ったw
ツイートもされてたのでリンクはっておきます。


こういう演出になってますねって話に対して、演出の木村さんはどういう意図でそうしたかは注意深く言わないように避けてる感じだったのが印象的でした。そこも聞きたかったんだけど、言うとそれが正解になっちゃうからかな。


シェイクスピアをどう楽しめばいいのか、という話で、いきなり戯曲はオススメしない、あれは設計図だからという話が出て。まずは何かプロダクションを見てほしい、それから戯曲を読んでほしいと。戯曲を読む際も具体的にあのシーンこうだったな、なんでこうなんだろとか具体的に思い出しながら読むのがいいということでした。

好きな役者さんが演じたらどうなるかなとか、とにかく具体的に想像しながら読むのがいいです、と言われてなるほどな~という感じでした。戯曲ってそのまま読んでも無味乾燥な感じがして読みづらいんだよなって思ってたんだけど、そういうふうに読めばいいのかと。

今回、好きな役者さんがこういうの演じたらどういう感じになるんだろうなぁって考えながら見ていたのもあり、ミーハーな方向性を肯定されたような気がして嬉しかった(笑)


あとミーハー路線の話でいうと、北村さんがなぜシェイクスピアを好きになったかの理由が「中学生の頃にディカプリオ主演のロミオとジュリエットを見たから」で、その後もずっとディカプリオが原因ですねって言ってておもしろかったです。

*1:アプリゲームの名前。プレイヤーは劇団の監督として役者を育成する

*2:ミュージカル「テニスの王子様」。若手俳優の登竜門的な作品として知られている

感想を書く、書かない

最近、感想を書くことへの興味が薄れてきた。
いや、書きたいという気持ちはある、けど、ブログに書く気があんまり起きない。

書き残しておきたい思いはあるんだけど、外に出すことで何かがすり減るような感覚がしていて、evernote にほんの少しメモを残すだけになっている。

やっぱり悲伝のダメージがでかいなぁ…というのをしみじみ感じる。結局、悲伝がつまらない話であることをどうにか認めたくなくて私はわからないフリをしていたんだなぁというのはわかったんだけど、「わからない」という状態でずっと振り回されていたのが軽くトラウマになっていて、感想を書くことに対してためらいを感じる。

要は悲伝が伝えるのが下手だったっていうだけの話だと思うんだけど、(いや上手だよって感じる人は末満さんと感覚があってるってことだと思う)、私の受け取り方が下手なのでは?という疑念に振り回されていた期間が長すぎて、その時の感覚が消えない。

何か、「間違った」解釈を書いてしまうんじゃないか?という恐れが消えない。

そう考えるとたかが観劇といえど、これはなかなか恐ろしい趣味だなぁと感じる。ただ一度、ひどいものに触れてしまったがために、深い傷を負ってしまうことがある。

もう少し早く、つまらない作品なんだと気づけていたらなぁ…。考えても詮ないことだけど考えてしまう。

とかいいつつも、いい作品に出会うと、感想として吐き出しておきたいという気持ちもあり…。グループに投稿しなければ多少ましかなぁ…ちょっとそれでやってみるか…。

悲伝への執着がなくなった理由

これが原因だったのかー!という落着点が見つかったから、なんですが、以下は悲伝が好きな人は注意。


これまでさんざん悲伝の批判記事を書いてきたんですけど、指摘してきたような欠点って、他の作品にもあるんですよね。でも別に気にならないし、仮に悲伝でそれらの欠点が解消されていたとしておもしろく感じるんだろうか?って考えた時にいや、そんなことない気がする…と考えてました。

で、あ、そうか、と思い至ったのが、単純に悲伝がつまらなかったんだな、と。

刀ステがつまらないというのは私にとって「あってはならない」ことだったから、なんとかそれを否認しようとしていたんだなぁ…と。わかってみたらとても単純な話だった。人間の脳って自分が見たくない真実を見ないようにするためには全力を払うからすごいよね。おかげで私めっちゃしんどかったけど(笑)

推しにとって思い入れがある作品、しかもチケットを取るのに苦労した作品がつまらないの本当に悲劇ですからね。円盤先行で取ったチケットとか実質1枚2万円のチケットですよ*1。それで見れるのがこれか~…という、なんともいえない虚無感。

この原因に気づいたのが昨年末あたり。悲伝のことがずっと頭の片隅にあったのがすっとなくなって、めちゃくちゃ楽になりました。ループする話であることすら忘れていたことにこないだ気がついて、本当に忘れてたんだ…としみじみ感じるとともに、自分の薄情っぷりにウケたりしました。あれだけ考えてたのに忘れるの早くない?(笑)


同担さんたちもわりと同じ感じの人が多かったようで、こないだの新作発表がまったくもりあがっていなくて、誰もおめでとうって言ってないことに気づいた時にちょっと笑ってしまった。もともと刀剣乱舞が好きでまんばちゃんきっかけで荒牧さんを好きになった人たちはわりと喜んでたけど(まぁこれはそりゃそうですね。それでも全員ではないという闇深さ…)、それ以外は発表ツイートのRTのみ、もしくは「あれ?出るの?」的な反応。

これまで刀ステ新作発表といえば、「また推し出る!チケット大変だけどがんばろうね!」というノリでわいわいするのが常だったので、悲伝は私が感じた以上に受けていなかったんだなと知って、安心したような残念なような、複雑な気持ちでした。
(推しが出る舞台は評価されていてほしいな…という願望もあるので…)

*1:実際には複数積んでる回もあるのでもっと高い

感情が乗る/乗らない

末満作品には、私の感情が乗らない。
他にもあるのかもしれないけど、今のところは末満作品だけ、際立って乗らない。
そのことに初めて気がついたのは悲伝だった。

この感覚を説明するには「感情が乗らない」という表現が一番しっくりくるのだけど、一般的な表現に言い換えるなら、「共感できない」あたりが近いだろうか。キャラの心情に私の気持ちが寄り添えない。普段、舞台観劇をする際には各キャラの心情に寄り添い、共振して震えを感じ取るような感覚で感情を味わっているのだけど、その共振ができない。

悲伝も最初は気づかなかった。話がわからないので、せめて感情移入してカタルシスを得ようと思い、いつもよりも意識的にキャラに寄り添おうとして気づいた。できない。なにか、弾かれるような感じがある。

意識的に寄り添うことで、共振できたシーンもあった。それでもいつもに比べれば全然。その時は悲伝だけなのかと思っていた。

しかしその後「TRUMP」(の reverse バージョン) を見て気づいた。心が動かされない。話は面白いが、登場人物の誰に対しても寄り添えない。共振できない。その分、他人事を眺めている感じが強く、誰がどんなひどい目に遭おうと、大変そうだなぁとのんびり眺めていられたが、不思議な感覚だった。true バージョンを見、SPECTER を見、LILIUM を見、グランギニョルを見た。同じだった。

見る過程で思い出したのは、ジョ伝でも共振できず、意識的に共振しにいったことだった。山姥切の慟哭にいまいちうまく乗れないなぁと思ってはいたが、その時はたまたまだと思っていた。(悲伝の手合わせの山姥切にも同じく乗れないのだけど、明治座楽の時は乗れないのにすごく伝わってきて、あれもまた不思議な感覚だった)

何が原因なのかはわからない。

他の作品でもこの現象に行き当たれば比較して何か発見できそうなんだけど、感情が乗らない=舞台を見る上での楽しみが減ることを意味するので、行き当たりたいような当たりたくないような…(笑)