考える練習

舞台やイベントの感想など

ようやくすっきりした…

年数がたっただけでは心理的に成熟はしない、というのがTRUMPシリーズでは残酷に描写されてるなと思うんですが、これたぶん悲伝も同じなんですよね。三日月は刀だった時に長い年月をすごしてますが、それだけでは成熟はできない。できなかった。なので、歴史が長い刀だから山姥切や他の刀剣男士より成熟してることをつい期待してしまうけれど、そんなことはないんだろうなと。三日月も子供だと考えると、悲伝の自分勝手な振る舞い、めちゃくちゃよくわかるんですよ。

ただ、ループして年数はたった分、いろいろな面で技術は向上してるので(強いのもそうですね)、他の刀剣男士に対して上の立場を得ることができた。特に山姥切に対しては「親」のような立場を得ることができた。

でも心理面での成熟を伴わない、技術だけうまくなってしまった状態って用意にモラルハザードを引き起こすんですよね。「親」としての立場をフル活用して、いわばいいように操れる状態になってしまった。でも心理面の成熟は伴っていないから、どこまでがやっていいことか、どこからはやってはいけないことかがわからない。

一人だけループするようになったこと自体がかわいそうではあるのですが、そこから抜け出したいという事情と、心理面での成熟は伴わず、技術だけ向上した状態とが組み合わさった時に起きた悲劇、それが悲伝だなと思います。

おそらくあの世界にはそういった部分で成熟を促すようなメディアは(書物なども含めて)何もないだろうことも考えると、そもそも成熟するチャンスを得られなかったという時点で、三日月自身も被害者みたいな面はあるんですが…。

いやーけどあらためて、悲伝はその三日月を全肯定してるのやばいな~…笑 なんか腑に落ちない人はたぶんそこでひっかかってるんだと思うんですよね、悲伝は全肯定してるけど、肯定してはいけないように見える、どういうことなんだろう?という。逆に大絶賛してる人は一般的な倫理としては肯定してはいけないものを肯定してくれるからこそ、甘美に感じられるんだろうなと思います。

そこまで考えて三日月の行動は「愛」ですね、と鈴木拡樹氏が言ってた意味がよくわかるな~… すでに一度書いてますが、やっぱり慈愛ではないんですよ。エゴの愛。執着というのが一番正確だとは思いますが、甘美さを感じてもらうためには、やる側は「愛」だと思ってないとたぶん成立しないので、演じる際の意識としては「愛」なんでしょうね。

けどこれ、私も騙されてたけど、「よくわからない」ってなった場合に、「ループの仕組みとかが明かされてないから、その空白があることが落ち着かなくてその感想になるんだ」って思いがちで、悲伝絶賛してた人にもそれでマウント取られたんですよね(笑) 私はこういう曖昧なものも楽しめるのって感じで言われて、そこが駄目なのかなって私も勘違いしてたんですが、悲伝が三日月を全肯定してるのが、「よくわからない」んですよね。(念の為書いておくけど、悲伝の「登場人物が」じゃないよ、「悲伝が」)そしてその感覚は「正しい」。一般的な倫理観では「え、これ駄目じゃね?」ってなるのが普通です。ただ、マルキ・ド・サドの話なんかが顕著なように一般的な倫理では駄目だけど、でもめちゃくちゃ甘美だよね、みたいな話はあり、悲伝もそういう話なんですよね。

しかし構造を明かさないことにより、そのあたりをベールに包んだ状態で出すことができ、ささった人は「私は賢いからわかった」と優越を得ることができ、ささらなかった人は「曖昧な作品だから楽しめなかったのかな」と感じ、あまり批判できなくなる。

うまくできてるな~と今あらためて思います。

その絶賛してた人は 2幕から面白いって言ってて、私は2幕からよくわかんねぇなっていつも思ってたんですが、2幕はそのテーマがどんどんあらわになってくるパートで、「他の者を傷つけてでも山姥切との約束を果たしたい」という目的がどんどん明確になってくるパートなので、そこが刺さる人からしたら、刺さる目的がどんどん示されるパートなんですけど、そこが刺さらない、それは倫理的に駄目でしょ、という人からしたら、そう見えるけど、さすがに違うよね…?でも他の目的がわからないってぐるぐるするパート
なんですよね。

鴻上尚史の俳優入門」という本を最近読んだんですが、そこで書かれていた、「じつは面白くなくなったと感じた時、登場人物の目的がよくわからなくなっていることが多い」っていうの見て、あぁ悲伝の2幕これだったなと。

あとこれ秀逸だなと思うのが、悲伝絶賛してた人ですら、悲伝が三日月の行動を全肯定してたことに気づいてなかったんですよね。「よくわからない」だった人はこれのせいでより混乱したと私は思ってるんですが(少なくとも私はそう)、登場人物の言動による表現ではなく、音楽や照明での表現だったことが大きいのかなとは思うんですが、そこに気づかないことによるメリットがなにかあるのかもしれない。

いやでもまじで、絶賛してた人たち誰も「他の者を傷つけてでも山姥切との約束を果たしたい」のめっちゃエモいって書いてなかったの、なんなんだ…。一言そう書いてくれてたら私は「あぁそれはささんないわ」って理解したのに…。私が見つけられなかっただけか? 自分がささったところは正直に書こうぜ!?と思うけど、そこでエモさを感じるの全人類の前提だから誰も書いてなかっただけな気がしてきた。自らの倫理観に物語鑑賞を邪魔される私。