考える練習

舞台やイベントの感想など

悲伝がわからなかった理由がわかった話

悲伝のわからなさとの戦いがようやく終わってほっとしているという自己満足記事です。

結局、なぜわからなかったのかがわからなければ、また一からあの五里霧中を進むようなしんどさを味わうことになる可能性があるんだよな…というのが残った不安で、これに関しては年単位の時間がかかるかもしれない、と思っていたので、思ったより早く解消できてよかった…。

(「なぜわからなかったのか」を理屈で理解することは困難で、いろいろな芝居を観続けることにより、悲伝のわからなさはレアケースなんだなというのを実感としてつみあげて不安を解消していくしかないんだろうと思っていた)

結局の所、同じ状態になったことがある人にしか伝わらないのではないかという気はするのだけど、順に書いてみようと思う。


◇◇◇


また悲伝のような作品が来た時のための具体的な対策として、「2,3回見てわからなかったら自力での理解を諦めて、人にがんがん聞くこと」と決めたはいいものの、要するにわからなかったら諦めるということしか決められていないわけで、もうちょっと何かないのだろうか?というのと、わからなさに慣れるために、評価が割れている作品や難しいという感想が散見されるような作品を意識的に見に行くようにしていた。

わからなさが心地良い作品、どのようにも解釈できる幻想的な作品、細かくわからないところはいろいろあるもの気にならない作品、わからなさの種類も度合いも様々な作品を見た。どれも素敵な作品でとても楽しかったし、見に行ってよかったなぁと思う。

どの作品も、「いくつかわからない点があるが気にならない」もしくは「こことここがわからないという明確な手触りがある」のどちらかで、悲伝のように「全体がわからない」という感触になるものがなく、あらためて、悲伝のわからなさはとても異質なものだったのだなという認識を深めていた。

そうして見に行った作品の中に、「みどり色の水泡にキス」という作品があった。(以下、みどり色と略します)


※注意※
以下、「みどり色の水泡にキス」のネタバレを含みます。
また、この記事には、悲伝の三日月の行動に関して批判的な記述が含まれています。



あらすじと、感想の割れ具合を聞いて、気になって見に行った。

あらすじ

小学5年生の頃、マコトは妹のミドリに恋をした。
それが正しい恋ではない事をマコトはとても理解していた。


そんなある日、マコトの祖父が死んだ。落ち込むミドリの前で母は言う。
『おじいちゃんは生まれ変わって、きっとまた会いに来てくれる』
それを聞いていたマコトは“輪廻”という言葉を知る。
マコトはミドリを殺す事にした。
ミドリが生まれ変わる事で、血の繋がっていない“他人のミドリ”に会えると考えたのだ。
マコトは眠っているミドリの顔に枕を押し付け、そのまま殺した。
母はこの日から頭のネジが何本か無くなった。


それから6年が経ち、高校2年生になったマコトの前に、臨時で赴任してきた教師が現れる。
ミドリだった。どこからどう見てもミドリだった。
だいぶ大人になったけど、見た目も、声も、名前も。
マコトは再びミドリに恋をする。
マコトはミドリの長い髪が好きだった。
下がった眉毛も、他の子より華奢な体も、やわらかい声も、口調も、何もかもを愛していた。
しかし、教師のミドリは交通事故で死んだ。
蛇口をひねったように涙をこぼすマコトだったが、幼馴染のハルヤマのおかげで、なんとか立ち直る。


そしてまた6年が経ち、印刷会社に就職したマコトは、同じ新入社員の中に再びミドリを見つけた。
かつて妹だったミドリが、教師だったミドリが、同じ年齢になって帰ってきたのだ。
『輪廻なんやろかコレ・・・』


マコトはミドリに恋をして、必ず失う。
けれど6年経つとミドリは蘇る、何度も・・・。


これは70年間の初恋の話。


感想はなるほど賛否両論。
そして、否定的な感想で、殺人をおかすというのが無理、だったり、それを美しく描かれてるのが無理、みたいな意見があった。


実際に見てみての感想は「気にならない」だった。とても幻想的で素敵な作品だと私は思った。殺人が気にならない理由はあげようと思えばあげられるけど、それは後付けでしかなくて、どちらかというと感覚的なものなんじゃないかなという気がした。

それで、感想を見ていると、「せっかくいい役者さんたちで、いい演技をしているのに、殺人を犯してまでというところで共感できない。残念だ」といったような感想があった。

私の悲伝に対する感想と同じだ、と気がついた。せっかくいい役者さん揃えて、みんないい演技してるのに、話がぼんやりしていて、全然よさがわからない。なんてもったいない。と思っていた。

その時はシンプルに作品が微妙であり、単にあわないだけではないのだろうと思っていた。だからこそ、そういう感想になったんだけど、この人達もたぶんそうなんじゃないか、という気がした。単にあわなかっただけとは思っていない。作品自体が駄目なんだと感じている。

みどり色、私は良い作品だと思うんですよね。おそらく単にあわなかっただけだと思うんだけど、その人達にはそうは思えない。

この意見の割れ具合を見てて思ったのが、どんな舞台にも長所と短所があると思うんだけど、その舞台の魅力に対してまったく感応できない場合、短所だけがみえる状態になるんじゃないか?と。

私にもあわない舞台の経験はあって、その時は「これは私には合わないだけだな」という感覚があったから、鍵垢で not for me ってひっそりと書くだけにとどめた。作品自体が悪いわけではないと感じたから。

悲伝でそうしなかったのは、これは単にあわないのとは違うと感じたから。その人達もおそらくそうなんじゃないだろうか。単にあわないだけで作品自体が駄目なわけではないと感じた時に、あのトーンで感想は書かない。

正直、悲伝に関して、単にあわないという訳ではないんじゃないか?という疑念はまだ捨てきれていないんだけど、意見が割れる作品に関して、よさがわからない側とわかる側、両方経験したことで、そうは見えないけど実際そうな場合があるのかもなぁと思えるようになった。


ではこの場合、ひっかかっているポイントは何なのかと考えた場合に、倫理観の問題なんじゃないだろうか。2つの作品の共通点として、「犯罪行為(もしくはそれに近い行為)を主人公サイドの登場人物が行う」「その行為を行った理由が明確に説明されない」というのがあるんだけど、そうなると、説明がなくてもその行為を感覚的に許容できるかというのがまず第一関門になってしまうんではないかなと。

そして、みどり色の殺人行為にひっかかった人はそこが許せなかった。私の場合はそこは大丈夫だったんだけど、悲伝で、三日月のしたことが許せなかったんですよね。


それで、悲伝がわからなかった理由なんですが、私にとってはひどい行為としか映らない行為が「美しいこと」「素晴らしいこと」のように描写されているのが理解できなくて、「よくわからない」となっていたんだなと。すとん、と腹落ちしました。

なんていうか、かっこわるいし、美しくない、と私は感じるんですよね。だから、「すごくかっこわるいけど、でもそういうふうにしか振る舞えない時もあるよね」って描写ならたぶん大丈夫だったんだけど、「美しい」っていうていで描写がきたから、「受け取ったものとメッセージに齟齬がある。何か見落としてるのだろうか?」ってなってハマってしまったんだなと。

ここに気づいた時に、あぁそっか、ってすとんと落ちると同時に、ようやく「また悲伝のような作品が来たらどうしよう」という恐怖から本当に逃れられた気がしました。これまでできてたのって、ただただ、「またわからない作品が来たら自力理解にこだわるのを早めに諦めよう」っていう覚悟だけでしたからね。これだけ分解しても悲伝が結局なんだったのかよくわからないということは、また似たようなのが来た場合、おそらく私は理解できないだろうけど、もうそれはしょうがないと腹をくくって見に行こうという。

それが、わからない場合はまずそういう部分から疑えばいいんだという指針ができたことでようやくちゃんとした道ができたなと感じました。

「よくわからない」となった場合は、自分が受けた印象を整理し、それに対して、作中ではどのように描写されてるかを考える。まぁでも結局、そこに齟齬がある場合は、あわない作品である可能性が高い訳で、そう考えると「わからない」から「あわない」になるだけとも言えるんですけど…。

でも「わからなかった」せいで、延々考えるはめになり、非常にしんどかったことを考えると、少なくとも「理解はできてる」と感じられる状態には持っていける可能性が高まったのを言祝ぎたい。



それから、悲伝自体をようやくちゃんと評価できるようになった気がしています。これまでずっと、「わからない」でしかなかったので…。要は三日月の行動が許容できないだけで、悲伝自体は好きなんですよね。

これまでにも倫理観上、受け付けないってなったキャラがいて、ロスモワの伏見仁希なんですが、あまりにも無理だったので円盤を買っていません。作品自体は好きなんですけど、これは円盤買ったところで見られないなと思って…。

たぶん悲伝も同じなんですよね。ただ、仁希はサブ要素というか、主筋に絡むけどメインではないですが、悲伝では三日月、思いっきり主筋なので、わかったところでどうしようもない感じはあります。悲伝から三日月要素を除いて思いをはせるとなると、各エピソードをばらばらに考えるしかなくなってしまう…。もうあとは私の価値観が変わるのを期待するしかない。