考える練習

舞台やイベントの感想など

ばぶちゃんなら仕方ない

「要は三日月はばぶちゃんだったんだな…」というところに先日あげた記事で落ち着いて、そうしたら別に三日月に対して腹たたなくなることに気づきました(笑)。ばぶちゃんだったら倫理観なくても仕方ない。私の期待値がどうも、ステ三日月にとっては高かったようです。すまない。(映画版は普通に倫理観ある三日月なので問題なかった)

あとこれ、まどマギ的な魔女化理論で考えることもできますね。最初は人並みの倫理観持ってたんだけど、ループを繰り返すうちにソウルジェムが濁って魔女化し、なりふり構わなくなってしまった…という。

思うところがあり、いったん下げていた記事も含めて全部戻し、「悲伝」というカテゴリをつけました。20個ぐらいかな~と思ってたんですが、なんと32個ありまして。悲伝についてというよりはそういう作品について、みたいな話も含むんですが、32個。平均するとだいたい一記事2000文字くらいかなということで計算すると、合計6万字、という。

これはあくまでアップロードした文字数で、その数倍の文章をローカルでは書いてることを考えると、トータルの文字数すごいな…。それだけ書いてると、さすがにそろそろ考えるポイントも尽きてきたな~と思うんですが、いまだに「あ、これこういうことでは?」って発見が発生することがあっておもしろいなと思います。

最近あったのでは、「オタク、物腰に騙されがちじゃない?」っていうツイートを見て、あ、三日月もこれあるな…と。単純に「末満さん、三日月(というか鈴木拡樹さん?)のことが大好きなんだなぁ、だから特段好きではない人の視点が想定できなかったんだろうな…」と思ってたんですが、これ、「作品が肯定していること」と「キャラの物腰」でひどい行為をどこまでごまかせるか?の実験でもあったのかもしれないなぁというのが最近の気づきです。



そういえば、楽になったのって要するに、悲伝が打ち出してくる「三日月の行動は愛ゆえなのだ」ってメッセージをなんとか受け入れようとしてたのを諦めたからなんですが、これロスモワの仁希の時と完全に同じなんですよね…。あの時も、なんとか「これは愛だ」という解釈で受け入れたくて、でもできなくて、別にみんなと同じでなくてもいいじゃん!って思って、「決して愛なんかじゃない」っていう内容の記事を書いて、ひと区切りついたんですが、あれも毒親パターンだから構造が同じだし、関係あるかわからないけど脚本・演出が末満さんなので、全く同じで興味深い。

あの時に比べると諦めまで長くかかったのは、作品がその行為を肯定しているのと、三日月の中の人が「愛だ」と言ってたところから、できればそこに寄り添いたかったからだろうなと思います。基本的には解釈は受け取った側の自由だと私は思っていますが、作り手側が「こういうつもりでやりました」と言っていたり、「こう受け取って欲しい」とメッセージを出していることを、そう見えないとしても、ばっさり切り捨てるのはやっぱり躊躇いがあるんですよね。まぁ見えないんですけど…(笑)