考える練習

舞台やイベントの感想など

エーステ秋冬感想 & ぼく明日(荒牧x三森回) 感想

感想記事をあげたくてあげられなくて。気がつけばもう4月ですね。

……早くない??どっかひと月飛ばしてない?

エーステ秋冬

春夏をライビュで見てから楽しみにしていたエーステ。前評判通り最っ高の出来でした。

今だからいうと初日見た時にいまいち「よかった~!」ってならなくて、「期待しすぎたからかな…?」ってちょっとしょんぼりしてたんですけど、2回目見たら「めっちゃよかった…!」ってなって、ぼろぼろ泣きました。あれなんだったんだろ?

秋組の話は劇中劇がかっこよすぎて毎回いいな~羨ましいな~ってなってた。
太一のポートレイトの「好かれたかった。愛されたかった」が噛みしめるような言い方になったのが好き。元が声オタなので言い方に注意が行きがちなんですけど、万里の「お前はGOD座の七尾太一なのか!」のところが、東京公演の最初の方はシンプルに怒鳴るというか大声を出す感じだったんですよね。何回か入ると、冷静に諭すような感じ、優しげな感じ、といろいろ試行錯誤していて。最終的にどうなるのかなと思ってたら大阪で最初の怒鳴る感じに戻ってきてて、(山口は行ってないので山口からの可能性も)、でもそれが単に最初と同じじゃなくて、試行錯誤した過程が全部入った「お前はGOD座の七尾太一なのか!」になってて、めちゃくちゃ興奮しました。

冬組の話は原作読んだ時から好きだったんですけど、やっぱよかったですね…。
紬の来歴とか性格とかが自分と重なるところがありすぎて、すごい共感してしまう。「終わらない文化祭前みたいな…」のシーンと最後にレニさんに意趣返しするシーンが好き。紬の話は自分と重なるところはありながらもすでに過去にさんざん悩んで考えて乗り越えてきた部分が多いので、そこまで持っていかれずに見ることができて、距離感保ちつつ親しみを持って見られる感じで見ててすごく楽しかった。

余談:重なるところが多すぎて推しへの手紙でもそこに触れないのが難しく、私としては珍しく自分語りがかなり多めの手紙になってしまい、出してから「あれ大丈夫だったかな~」って恥ずかしくなったりしました…(笑) まぁ自分語り削ればよかったんだけど、そうするとかなり薄い感想になりそうだったので…。

あとカテコね…。万里と紬のやりとりが毎回めちゃくちゃかわいくて、もっと回数入れるようにがんばればよかったな~って思いました。

朗読劇「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」荒牧x三森回

ぼく明日は初演を見たことがあったので、まぁ話は知ってるしな~みたいな感じだったんですが、
hirokuhukaku.hatenablog.com
推しだと全然違いますね!笑

こっちの集中力が違うんでしょうね、泣き具合は変わらなかったんですが、ひとつひとつの心情がぐっとささってくるようで、心動かされ具合としては変わらないんだけど、後引く感じがあるというか。いまだに楔が刺さったままになってるような感触があります。

一番印象に残っているのが高寿にとっての最終日、詳しく教えてと言われて、詳細に語った後。楽しそうだった表情がすっと苦しそうな表情に変わって、「こんなの、愛美にとってはなんにも楽しくないじゃないか」と言うシーン。初演の時は、そのあとの愛美のセリフにとても大きな愛情を感じて、ぼろぼろ泣いて、そっちの印象が強かったんですが、今回は高寿のつらさがより刺さってくるように感じました。そこから涙をこぼすに至るまでの感情変化が自然な感じで、そのきらめくような心情の変化に惹きつけられて、これまであんまり、荒牧さんのお芝居のしかたが好き、みたいな風には感じたことがなかったんですが、この時はこの人のお芝居をずっと見ていたいな…と感じて、不思議な感じでした。

もうひとつ印象的だったのが、真実を知らされた高寿が「きついんだよ…」と愛美に言うシーンで、案外、つらそうにしてたシーンがけっこう印象に残っているなと思います。

今回は三森さんがしっかりめの印象だったせいもあってか、荒牧さんの高寿はまだ半分少年のような、ちょっと幼い印象。終盤急にぐっと大人びて見えて、それまで幼い印象だっただけにその印象が鮮烈でした。後からインタビューを読んで、真実を知ってからは大人になる感じを意識した、という旨の発言があって、あっていたんだなぁとちょっとうれしくなったりもしました。

好きになれない自分を肯定していく

昨日の記事でリンクをはったロスモワについての記事を読んで、自分の書いた記事なんですけど、「他の人と同じ感想を抱く必要もないのでは」というところにすごく慰められて。

どこかで私は「悲伝をいい作品だと思えないのは私がおかしい、もしくは努力が足りないからではないか」という思いを持っていたのかもしれない。

推しがすごく楽しそうに悲伝の話をしていたから、というのが大きいのかなと思います。推しが好きな作品を私も好きになりたかった。

作品の実際の出来なんてたぶん本当はどうでもよくて(作品の出来もいいのがもちろん最良ですが)、ただ、推しが好きな作品を私も好きになりたかった。

基本的に許容範囲が広いので、「これは駄目だ」ってなる作品自体がめちゃめちゃ少ないんですよね。「悪くはないけどそこまでささんないな~」か「これは私にはささらないけど、いいなと思う人がいるのは理解できる」ぐらいしかなかった。実際、これまで3年間いろいろ観劇してきた中で(振り返り記事を見てもらえばわかると思いますが、私は推しの出演作や2.5に絞らず、いろいろ見るタイプです)、これはまじでクソだなって思ったのは一作品だけだし、虚無って叩かれてる作品でも、うーん、めっちゃおもろいかといえば微妙なラインだけど、そこまでか?と感じることが多かった。

そんな私にとって、悲伝は初めての虚無作品でした。その後も虚無作品にはひとつも遭遇していません。だから余計にどうしたらいいかわからなかったんだと思う。

思い返せばロスモワの仁希も、推しは演じていて楽しいと言っていたんですよね。でも私は好きにはなっていない。

じゃあ今回も一緒だよな、と。すごく楽になりました。推しが好きだからといって、私まで好きにならなくてもいい。好きになれなくてもいいんだと。

悲伝では各所にご迷惑をかけてしまい、そのことについては申し訳なかったなと思います。あと見守ってくれた方々、本当にありがとうございます。SNS に出さずに考えるだけだったらもっとかかってたと思う。

ただ、変わらず悲伝のことは嫌いなので*1、「いい作品ですよね」という話の振り方はしないことをおすすめします(笑)。「私はそうは思わないですね…」としか返せないので。

*1:はっきり嫌いって言えるようになったの、すがすがしく感じる

悲伝を好きになれない理由 (vol2) (たぶん)

またひとつ発見があったのでメモです。
なんだかんだでこうして遊べることを考えたら悲伝優秀な気がしてきた。

悲伝が駄目な理由、すっごいシンプルかもしれないと気づきました。「エゴの愛をアガペーの愛として扱われてるのが気持ち悪い」の派生みたいなものではあるんですが。

先日、下記の漫画を読んでいて、とあるシーンのセリフがすごくささりました。
お母さん二人いてもいいかな!?
(ちなみに今 kindle 版が100円で買えます!)

子供への深い愛情が伺えるセリフだったんですが、その時に、私はこの逆のパターンは本当に駄目なんだよなって、ふと舞台「K - Lost Small World -」(以下、ロスモワ) の伏見仁希のことを思い出して。伏見仁希は息子の大事なものを壊して憎まれることに楽しみを見出すというなかなかのキャラで、推しが演じているにも関わらず、私は仁希が無理すぎたので円盤を買っていません。無理すぎて書いた記事はこちら
hirokuhukaku.hatenablog.com
読み返したらこないだ悲伝に関して書いたことと同じようなこと書いててちょっとおもしろくなってしまった(笑)


その時に、あぁそうか、ステ三日月も一緒だよなぁと。

仁希が駄目な理由は、もともとクズキャラが苦手であることと、親(もしくはそれに類する立場の人)が子供を傷つける状況が地雷だから、なんですが、親が子を傷つける状況って悲伝の三日月も一緒だよなぁ…と。

実際には親ではないですが、親のような立場として山姥切に対して振る舞っているし、山姥切も親に対するように慕っている節があるのと、ループしまくっていることを考えると生きている年数としては年長者の立場にあることから、類する立場とは言えるかなと。

三日月が山姥切を傷つけていることに関しては、悲伝称賛派も同意だと思うのですが(違ったらどうしよう)、そもそもそれが地雷だから駄目なんじゃね??という。

ロスモワでは仁希は重要キャラではあってもメインではないので、こいつまじむかつく、でも話はいい、という切り分けが可能なんですが(実際ロスモワは話自体は好き)、悲伝においてはその地雷行動を取るキャラがメインなんですよね。そうなると話だけ切り分けて評価することができなくなってしまう。


ちなみに、どのくらいの時期から考え始めたかは忘れましたが、個人的には、三日月と山姥切の関係性、毒親とその子供みたいな関係性だな~と思って見てました。たぶん山姥切は早く関係を切った方が幸せになれるやつ… 今は親鳥についてく雛状態だから無理だと思うけど…。あとついてくことを選ぶにしても(今は別々の状態なので精神面での比喩的な話になりますが)、選択するという視点がない状態での否応無しの選択じゃなくて、ちゃんと関係性を理解した上で本人の選択ができる状態になるといいなぁと思います。今だと選んではいないので。

余談。悲伝好きな人に話聞いてた時に、山姥切が三日月三日月言ってるからそこに嫉妬しているんだと理解されてたことがあって、そういう視点があるんだな~と興味深かったんですが、私は役と本人をそもそも分けて考えてるのと、三日月と山姥切の関係性を上記のように捉えてるのもあって、山姥切に関しては、つらい状況に巻き込まれてしまった友人を見守るような気持ちで見てます。


自分で不思議だったのが、話がどうか、という観点で、もうこれは価値観の問題だから仕方ない、諦めよう、と思ってた時は「悲伝がいい話だと思える人羨ましいな」と思ってたんですが、「『仁希かっこいい』って言ってた人たちと同じようなものか」って考えると、なら別にいいやという気持ちになってきました。なんでなのかは不明。何が違うんだろうな。


そういえば、食い違いでもう一つ、悲伝を「丁寧」と評してる人が時々いて、「どこが…??」と思ってたんですが、これのせいかなとおもったことが。

たぶん、悲伝がいいと思える人にとっては、三日月の行動が愛ゆえの行動であることは自明なんですよね。だから、そこをあらためて愛ゆえですよって言われると説明過剰だな~ってなるし、丁寧だな~ってなる。

しかし、三日月の行動が愛ゆえのものとは見えない身にしたら、(私の場合はエゴ由来は別物という認識なのでそう見えない) 全然そう見えないのに「愛ゆえとして受け取ってね」とだけ言われる状態になるので、(具体的なセリフがある訳ではなくて、演出などからメッセージとして伝わってくる)、「???」だし、「この作品、描写が下手だな…」となる。

たぶん他の行動も食い違いが発生する部分に関してはそうなんだろうな…。

そういえば、悲伝、純粋にアガペーの愛の物語として捉えようと思えば出来るようにしていることによって、「なんやねんこの話」となるリスクを少しでも避けようとしてるのかもな~と思ったりしました。飲み込みづらい人はアガペーの愛の話として解釈すればいいよ、という。実際そこまで意図してたかはもちろん不明なんですけども。

池袋ウエストゲートパーク SONG&DANCE 1/4ソワレ 感想

下書きに放り込んだままになっているのに気づいたので、今更にあげてみます。
今年の1月ではなく、昨年1月上旬に観劇した感想です(笑)

↓↓↓

ざっくりでいいから早くあげてみよう企画第2弾。タイトルに日付入れると今日の感想ですって感じになって書きやすい気がする。

感想ブログ読んで「やっぱり気になる!」と思ってチケット取ってたんですが、とても…よかった…。

劇場は東京芸術劇場シアターウエスト。
通常は奥側にのみ舞台、だと思うんですが、ど真ん中にどんっと舞台があって、奥側は舞台と同じ高さのところにひな壇が作られて座席が置かれてました。なので奥側最前列は舞台と地続き。手前側の最前列もそうだったのかな?
K列だから双眼鏡いるなーと思って持っていったんですが、通常の形式の場合の前方列がつぶされてるために実際は7列目だったので、なくても普通に表情見えました。双眼鏡を使えばどこでも前方席派ですが、使わないほうがやっぱり舞台そのものに集中できていいですね。

なんだろうなー。めちゃくちゃ良くて、こんなに上質なエンターテイメントが7,500円(一般席)で楽しめるとか実質タダでは?って感じでした。

とあるギャング集団が仕切っていた池袋に新たなリーダーが現れて別の集団ができ、対立構造に陥ってしまい、悲劇が起こる…という話なんですが、流れの表現が絶妙で…。歌もダンスもレベル高いし、とにかく楽しかった。


以下、箇条書きまじえつつ。

  • 開演数分前からダンスバトルがあり、高まるストリート感。
    • ダンサーさんたちと俳優陣とのガチンコのダンスバトル(観客の拍手の大きさでどっちが勝ったか決める)
  • 染谷俊之さん演じるキングの存在感がすごかった。
    • 声の威圧感がすごい。単なる低めの声じゃないんだよね。めちゃくちゃかっこよかった…。小説読んでた時のイメージではガタイがいい人の印象だったから、「染谷さんがキング??」って思ってたんだけど、あ、この人は「キング」だって思った。納得せざるを得ない。
  • 対立相手のトップもよい
    • 染谷さんとは逆に、高めで飄々とした声なんだけど、地に足ついてない不思議な浮遊感が別種の底知れなさを感じさせて、ふらっと来てトップを取ってしまうことに関して、この方もすごい納得感があった。


池袋ウエストゲートパークはだいぶ前に小説で読んだきり、おぼろなイメージがあるきりなんですが、たぶんこれけっこういじってる、よね? こんな悲壮な感じの話だった覚えがない(笑)。

池袋のギャング集団がお互いに緊張状態高まったあげくつぶしあいになってしまい、それを止められなかった主人公が無力さを嘆く、という話なんですが、こんなに救いのない話だったっけ…? なんだかんだで止めてそうな気がするんですが、違ったかな。しかも最後、衝突を止められてないっぽい上に、その暴走の結果、どうなったかが示されないという…。主人公が生きてるとこ見ると、そこまで悲惨な事態にはならなかったんだろうか。

最後まで中立な立場を貫くマコト(大野拓朗さん)がいかにもまっとうに育ってそうな感じで、どっちかに肩入れするでもなく、中立な立場を貫く点に説得力があってよかった。

実は裏でヤクザが手を引いてて、いいように利用されてただけだ、という真実が明らかになるあたりで、「あ~池袋ウエストゲートパークってこういう話運びする物語だったよね!」って懐かしさを感じた。話がギャング同士の話で終わらないあたり、大人のずる賢さに負けるな、というメッセージも感じるし、世界は広いんだぞ、というのも感じる。石田衣良さんの小説はこういうところが好きだったなぁ…と思い出しました。
あとクラシックが要所要所で出てくるのもIWGP味を感じた。小説だと自分で探してこないと聞けませんが、舞台だとその曲がながれてくるのいいですね。

モブの人たちが赤と青、両陣営どっちも担当してるの、人はどちらにもなりうる、とかどちらでも変わりない、とか、なんかいろいろ読み取って遊べますね。舞台から退出して即逆陣営のブルゾンを羽織って出て来ることもあって、アンサンブルさん大変だ…とも思ったけど。

あれだけキングの言うことなら聞いていたのに、最後の最後、「武器を置け」って言われてもそこだけは従えないのも真実味があってよかったな…。凄むキングの表情もよかった。染谷さんはわりと飄々としたキャラばかり見てたから、あんな表情は初めてみた。

悲伝のエゴとアガペーの話

悲伝がどんな作品であるかという評価にかかわらず、結局悲伝をいい作品だと思えない限りはしんどいんじゃないかと思って試行錯誤していて、発見があったのでメモ。

エゴの愛として認識してる感想ブログをたまたま見かけて、「同志がいた…!」ってなってテンションあがり、あらためてアガペーとして認識してるかエゴとして認識してるかという観点でいくつか検索でひっかかった感想記事を読んでたんだけど、「アガペーとして捉えてるのかエゴとして捉えてるのか判然としない」感想か「これたぶんアガペーとして捉えてるな…」という感想しかないなぁと。明確にエゴの愛として峻別した上で、悲伝いい!という感想を本当に見かけない(いや、嘘。1件だけ見つけた)

よくわかんね~ってなっていろいろ感想読んでた時も、そうだったから混乱したんだったよな…ってあらためて思い出した。

これたぶん悲伝をいい作品だと思うためには、「三日月の行動をアガペーの愛として捉える」か「エゴの愛をアガペーの愛と同列のものとして捉える」のどちらかができないとだめなんじゃないかなぁという気がする。

TRUMPシリーズでもエゴの愛は描かれてて、LILIUMが個人的に一番わかりやすいなと思うんだけど、これが平気なのは、エゴの愛に対しての作品の評価がおぞましいものという評価だから。(作中での評価ではなく、作品としてのその行動への評価) それに対して悲伝ではそうなっていない。だから私の解釈とあわなくて気持ち悪かった。

で、そうなると私が悲伝をいい作品だと思うためには、「1. 三日月の行動をアガペーの愛として捉えられるようにする」か、「2. エゴの愛をアガペーの愛と同列のものとして捉えられるようになる」のどちらかが必要なんだなーというところでほぼ振出しに戻ったなという。

2. はわりと根っこの部分の感性の変更になってしまうから、1. の方が簡単な気がするんだけど、作品理解として正しいのはたぶん 2. の方。そうなると自分を騙す必要があるので、ほぼ2.の難しさと変わらなくなってきてしまう。

この私の感じている気持ち悪さを例えるなら、「快楽のために人を殺すことを肯定する作品」を読んだような感じ(舞台作品だと想像しづらいので小説想定)。なんだけど、そう考えると倫理観が関わる価値観の話になってくるので、そこを変えるのって、誰かに洗脳してもらわないと無理では?という(笑)。

結局無理じゃん、というところに戻ってきたんだけど、最初は土の表面なでて「無理かも…?」ってなってたのが、岩盤にかつんってぶち当たって「これは無理だわ」ってなった感じ。さすがに諦めがつく。快楽殺人を肯定するのはさすがに無理っす。あとわりと初期から感じてた気持ち悪さの理由がようやく見つかってすっきりしました。もー本当に気持ち悪くて、これ他の人は気持ち悪くないの!?まじで??ってなってたんですよね。*1

いまいち飲み込めない、なんかよくわからないってなってる人の中にも、実はこのあたりでひっかかってる人いそうだなと思う。「悲伝いい!」ってなった人たちは逆にこのあたりがあうんでしょうね。

*1:余談だけど、なんとなく検索してたら刀ステは気持ち悪いよって感想見かけて別にドンピシャで私と同じ気持ち悪さを感じてる訳じゃないと思うけど、「ここに言葉がわかる人がいた…!」みたいな気持ちになった。

カクシンハン・スタジオ 第1期 修了公演「ロミオとジュリエット」

何気なくTLを眺めていたら、カクシンハンでロミオとジュリエット、当日券販売予定ということだったのでふらっと行ってきました。

柱の後ろになるんですが…と言われ、どんな感じなのかなと思っていたら本当に柱の後ろだった(笑) 席ついた瞬間、思わず「な、なるほどw」って言ってしまった(笑)
真ん中のステージは全部見えたけど、上手側のステージ脇の一段降りたところはまったく見えず。さすがに誰がしゃべってるかわからないのはきつかったので、時々のぞいて確認してました。横の人と後ろの人ごめんなさい。段差ある会場だからそこまで邪魔にはなってなかった…と思いたい。


ロミジュリ自体をちゃんと見たのがたぶん初めてなので、他のプロダクションと比べてどうこう、というのはまったくわからないんですけど、役者さんたちはとても初々しい感じながらも、カクシンハン節ががっつり効いてて面白かった。ロックっぽい感じの音楽に乗せてセリフが始まると「カクシンハンだ~~!」と思ってすごいテンションあがってしまう。

2.5次元舞台でも明らかに経験浅い人がいることはままありますが、そういう人たちの感じともまた違ってて、週3で10ヶ月稽古してきた成果なのかな? 技術的には拙いながらもテキストの理解がちゃんとしてる感じがあって(完全に印象ですが)、興味深かった。

ただ、初日なのにすでに声が枯れてる人がいたのがちょっとつらかった…。喉しんどいだろうなと思って気になってしまう。

神父がジュリエットに薬を飲んだらどうなるか説明するシーン、途中からコロスも一緒に言うのと、ジュリエットがどうなるかをセリフにあわせて示しながらやる演出が好き。コロスが好きっていうのもあるんですけど、ああすることでおどろおどろしさが増す感じが楽しいなと思った。

それとエピローグの演出がめちゃくちゃかわいくてほっこりしました。他の方の感想読んでると普通はないっぽいので、セリフ自体が付け足されたものなのかな? シェイクスピアっぽくない感じのセリフに聞こえたのがちょっと気になりましたが、あのシーンがあることですごく救いを感じるな~と思う。


余談:
未経験がほとんどの人たちで作り上げるという点で、A3!*1のMANKAIカンパニーを思い出したり、テニミュ*2を思い出したりしてました。
MANKAIカンパニーの春組なんかはガチで初心者ばっかりで、数ヶ月の稽古で公演打ったことになってるけど、あれはやっぱりファンタジーなんだなぁ…と感じたり、そう考えるとテニミュって俳優育成の場としてすごいんだな…と明後日の方向に感心したりしてました。以前に同じキャラを演じたキャストの様子を参考にできる、キャラっぽく振る舞うことでセリフ回しの拙さや演技力の不足を補えるからなどの理由もあるとは思いますが。


アフタートーク

23日夜公演は演出の木村龍之介さんとシェイクスピア研究家の北村紗衣さんによるアフタートークがありました。

北村紗衣さんが仰ってたところによると、神父や乳母など年齢が上の方の役の人たちのセリフがわりとカットされてるそうです。そのためにだいぶ若々しい感じになってますよね、からの「このヴェローナに叡智はない」っていうのに笑ったw
ツイートもされてたのでリンクはっておきます。


こういう演出になってますねって話に対して、演出の木村さんはどういう意図でそうしたかは注意深く言わないように避けてる感じだったのが印象的でした。そこも聞きたかったんだけど、言うとそれが正解になっちゃうからかな。


シェイクスピアをどう楽しめばいいのか、という話で、いきなり戯曲はオススメしない、あれは設計図だからという話が出て。まずは何かプロダクションを見てほしい、それから戯曲を読んでほしいと。戯曲を読む際も具体的にあのシーンこうだったな、なんでこうなんだろとか具体的に思い出しながら読むのがいいということでした。

好きな役者さんが演じたらどうなるかなとか、とにかく具体的に想像しながら読むのがいいです、と言われてなるほどな~という感じでした。戯曲ってそのまま読んでも無味乾燥な感じがして読みづらいんだよなって思ってたんだけど、そういうふうに読めばいいのかと。

今回、好きな役者さんがこういうの演じたらどういう感じになるんだろうなぁって考えながら見ていたのもあり、ミーハーな方向性を肯定されたような気がして嬉しかった(笑)


あとミーハー路線の話でいうと、北村さんがなぜシェイクスピアを好きになったかの理由が「中学生の頃にディカプリオ主演のロミオとジュリエットを見たから」で、その後もずっとディカプリオが原因ですねって言ってておもしろかったです。

*1:アプリゲームの名前。プレイヤーは劇団の監督として役者を育成する

*2:ミュージカル「テニスの王子様」。若手俳優の登竜門的な作品として知られている

感想を書く、書かない

最近、感想を書くことへの興味が薄れてきた。
いや、書きたいという気持ちはある、けど、ブログに書く気があんまり起きない。

書き残しておきたい思いはあるんだけど、外に出すことで何かがすり減るような感覚がしていて、evernote にほんの少しメモを残すだけになっている。

やっぱり悲伝のダメージがでかいなぁ…というのをしみじみ感じる。結局、悲伝がつまらない話であることをどうにか認めたくなくて私はわからないフリをしていたんだなぁというのはわかったんだけど、「わからない」という状態でずっと振り回されていたのが軽くトラウマになっていて、感想を書くことに対してためらいを感じる。

要は悲伝が伝えるのが下手だったっていうだけの話だと思うんだけど、(いや上手だよって感じる人は末満さんと感覚があってるってことだと思う)、私の受け取り方が下手なのでは?という疑念に振り回されていた期間が長すぎて、その時の感覚が消えない。

何か、「間違った」解釈を書いてしまうんじゃないか?という恐れが消えない。

そう考えるとたかが観劇といえど、これはなかなか恐ろしい趣味だなぁと感じる。ただ一度、ひどいものに触れてしまったがために、深い傷を負ってしまうことがある。

もう少し早く、つまらない作品なんだと気づけていたらなぁ…。考えても詮ないことだけど考えてしまう。

とかいいつつも、いい作品に出会うと、感想として吐き出しておきたいという気持ちもあり…。グループに投稿しなければ多少ましかなぁ…ちょっとそれでやってみるか…。